最上義光歴史館/館長の写真日記 令和6年2月21日付け

最上義光歴史館
館長の写真日記 令和6年2月21日付け

霞城公園の梅の花、早くもこんな具合です。

 やはり今年の冬は暖かく、当館に隣接する霞城公園では、早くも梅の花が開花しました。例年3月上旬に開花する「早咲きの梅」として知られている梅なのですが、これが今年は2月14日に開花したとニュースがありました。
 梅というと、「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」という百人一首にもある菅原道真公(菅公)の歌が有名ですが、その菅公を祀っているのが京都の北野天満宮です。その境内神域には、菅公ゆかりの梅が約50種、約1,500本あり、梅苑「花の庭」が3月下旬まで公開されています。入苑料は1,200円で茶菓子付、週末は時間を延長しライトアップしています。
 北野天満宮は全国約1万2千社ある天満宮・天神社の総本社で、入試合格・学業成就・文化芸能・災難厄除祈願のお社です。山形市内にもいくつかの天満と名のつく神社がありますが、梅とともに受験期の今が、やはり稼ぎ時でしょうか。もっとも、神だのみの受験というのも、良いのか悪いのか難しいところですが。
 さて、千年以上の歴史がある北野天満宮には、数多くの宝物が奉納されており、刀剣だけでも約100振、そのうち最上家にも伝来した「鬼切丸 髭切」など5振が重要文化財です。
 北野天満宮では、菅公の亡後25年ごとに「半萬燈祭」を行い、文化財の「再調査・研究・修繕・保存」がなされるそうです。令和9年(2027)は「菅公御神忌千百二十五年」にあたり、「太刀 銘 安綱〈鬼切丸 髭切〉」の失われた「拵え」(こしらえ)を制作、奉納することとしました。拵えとは、鞘(さや)、柄(つか)、鍔(つば)などの刀身の外装のことですが、〈鬼切丸 髭切〉には、この「拵え」が伝わっていません。
 製作にあっては実行委員会を組織し、この「拵え」の製作費をクラウドファンディングで募り、今年の1月25日に締め切りましたが、2,262人の支援により、15,000,000円の目標に対し、57,841,643円の資金を集めました。当館からも関係職員・ボランティアからの寄附を募り贈りました。
 今回の「拵え」の製作には、携帯電話やPCで使われていた金や銀をリサイクルして使用するとのことです。ちなみに、〈鬼切丸 髭切〉の「鎺」(はばき)、これは刀身と鍔の接する部分にはめる筒状の金具ですが、現在2種類あり、新しいものは純金製とのこと。「拵え」の作成費の予算は当初、10,000,000円(その他は諸経費)としており、これが5倍前後の予算規模となったわけで、純金製「鎺」などは何個でもつくれてしまいそうです。なんとなれば、純金製の鍔や柄や鞘さえも、いや、失礼しました。
 さて、「梅」と最上義光という話題に移すと、現存する義光の連歌の最初が「梅」を詠んだもので、しかも発句です。「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし」。文禄2年(1593)2月、義光は朝鮮出兵に従い九州名護屋の陣営にいたのですが、里村紹巴の一門が京都で春の連歌会を催すにあたり、発句を義光から届けてもらったものです。詳しくは当館ホームページの片桐繁雄著「最上家をめぐる人々♯30 【里村紹巴】」をご覧願います。
 さてここで、例により伊達・上杉両家の梅に関わる話でも。
伊達政宗が文禄2年(1593)に朝鮮から持ち帰った朝鮮ウメの臥龍梅(がりゅうばい)が現存しており、国の天然記念物となっています。仙台城に植えた後,晩年の居城である若林城内に移植しました。ここは現在、宮城刑務所の敷地になっており、一般公開されていませんが、以前、ブラタモリで中を訪ねていました。
 上杉謙信は酒豪で有名ですが、一人で縁側に座り梅干しを肴に酒を飲み、親しい家臣らと飲むときも肴は梅干しだけだった、との記録があるそうです。ただ、こんな飲み方が原因したのか、重臣たちとの酒宴の席で脳出血を起こし、49歳で死去しました。なぜか梅がお気に入りだったようで、市立米沢図書館にある「上杉謙信朱印状」の朱印は、鼎(かなえ)の中に「梅」の字が記されています。また、某酒造会社では、酒豪「上杉謙信」にあやかり、純米梅酒「梅杉謙信」というのを販売しています。ウメエースギ・ケンシン、駄洒落好きの親父にはたまらんネーミングです。

(→ 館長裏日誌へ)




2024/02/21 14:58 (C) 最上義光歴史館
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